なんの某さん

この間、上京した時、つきまといで私の出先に待ち伏せしていた中年の男性に出会いました。

一見カフェのような店の前に中年男性は立っていました。

でも、店の中はよく見えなく、なんの店だかよくわからず、客と思しき若者たちは店内で立ち飲みをしています。

怪訝に思って店の前に立っていた待ち伏せしていたと思しき中年男性に尋ねました。

 

ここは何なんですか。

と尋ねると、テイクアウト専門のカフェだと答えが返ってきました。

どうやってこのテイクアウト専門のカフェで飲み物を購入するか、中年男性は詳しく語ってくれました。

田舎にはない店に珍しがっていくつか質問する私に、中年男性はきちんと答えてくれました。

 

彼は、初めて今日この店を利用したそうで注文が出来上がるのを店外で待っていたようでした。

 

私はお礼を言ってそこを立ち去りましたが、つきまといの待ち伏せとはいえ彼にそんなに嫌な感じはしませんでした。

 

話の間、嫌がらせやこの件に紛れさせた話題もなく、普通に自然にその中年男性と話ができたからです。

 

つきまといは嫌がらせとはいえ、十把一絡げで各人が全悪ともいえなく、ひとりひとり違ってこの中年男性のように接触したら話せる者もいるのではないかと新たな期待に穏やかでほんのり柔らかな気持ちになった。

普通に自然に嫌がらせがなければ、老若男女関係なく話をする用意は私にはあります。

 

たとえつきまといがきっかけでも、対応次第でひとりひとり個人とは、いじめの加害者と被害者ではない新しい固有の関係を築けると思いたい。

 

あなた方だって、己の人生や己の資質で私にプラスアルファを与えたほうがいじめより満足と喜びを得れるはずです。

 

ほんの僅かな時間に中年男性と些細な会話を交わしただけで、あなた方をいじめ加害者と名付けてひとかたまりに見ずに個人個人を見るといった以前からの私の指針を再確認した小さな出来事でした。

 

忘れることもあるだろうけれど、ひとりひとり個人を見て、なんの某さんと名付けます。